昭和41年01月19日 朝の御理解
昨夜の、御月次祭の、福岡の文雄先生が住んでおります、その横にゃこの板壁ひとえ南側の方です。満の一つ横がほんの壁一重ですね。であそこの二階建てがありましたと、そこが焼けたんだそうです。それですぐその後に電話が掛って参りましたのに、おかげでその風向きが変わってから、家が助かったち言うてから、言っておりますね。本当にあの話しを聞きますと、そしてあのやっぱ相当焼けたんでしょうね。
テレビでずっと実況の所、実況じゃない、そのあの放送致しましたそうですから、それを見てからあの丁度、石井清さん当りも、丁度テレビを見とったそうです。それですからもうすぐその足であの、あちらに駆け付けて来て貰っておると言う事が、今、連絡がありました。そんな訳けで御座いましたから、昨日は福岡の連中も、もうすぐ帰りまして、もうどうせ今日、出て来ますからと言うて、皆んな帰りましたから、残りましたのは久富先生に土居の連中だけで御座いました。
で皆んな後片づけ万端終わってから、そこでお茶を頂きながら正義さんが、話しておる事で御座いますね。先生あの本当に例えば、自分の所の従業員なら従業員の中にです。この男は将来本当にまあ、自分が儲けたらああもしてやろう、こうもしてやろう、こうゆう所にも用意してやろうと言う風に思いをかけておる。それにですね。それがそのそれの裏を見てから、がっかりしたらもう、その気持ちがなくなってしまいます。
これも信心もこれと同じやろうと思いますと言うて、言うておりましたが。正義さんそれよと、私くしが申しました。もう信心はね、もう本当に、その信心生活が、本当に出来る人でなからにゃおかげを頂かれん。どげん神様が用意しとって下さっても、あの用意して下さる。そのそれが薄すなって来るんです。昨日、おとといですね、あちらの、小川組の兄さんと一緒に、ある現場に回らして頂いた。もうここだけは、これが任せとけばよかと思うとが居らんから。
又こう山を一回りしてから、やってる所が、誰かが連絡したらしくてまあ慌てふためいて、そのやって来たち。そいで又、その何も申しは致しませんでしたけれども、こういう大事な仕事をしておる時に、この人がおらなければそん為にまあ大体自分がおるのだけれども、その人に一任して、そのこちらに帰って来ておる訳なんですけれども、もう本当先生ガッカリしますちて、長い間目をかけてですね、たった一片に是はそれを、元取ろうとしたら、大変な努力がいるだろうと思うですよね。
信心もですね、どうしてあの人が、本当にお徳を受けられんじゃろ、おかげを受けられんじゃろかと言った様なここで見た、感じやら、ここで落ち込んでおられる、ぐうたらにそら感ずる人があるんですよ。所が矢張りその現にその、本当に椛目で信用しておるその人は、まあその裏話しがその方に直接、利害関係がある事だもんですから、それをお取り次を頂かれる訳けなんです。
その人の悪口を言う訳けじゃないけれども、お取次を頂いてそこを助すかったいと言うので本当に聞いて、ビックリ致しますですもんね。成程これでは本当のおかげが散まんになってしまうだろうと、私しは思います。どんなにおかげを頂いておるようであっても、それがやっぱり薄うなってしまいます。信心などこまでも言うておる事、行のうておる事。これが一致して行く所ではない。本当にお徳を受けて行く人はです。
もう、形に表われておる事よりも、もう、( ? )そのものが素晴らしい、影そのものが素晴らしいです。必ず人の信用を受ける人は、確かにそうです。神様の御信用をうける人は、尚更そうなんです。そんな人です、ですから信心はそこに、私しは焦点をおいてですね、自分と言うもの、本当によう反省して行かなければいけない。先日二・三日前丁度、福岡の末永さんが壱岐の方に帰っておられた。
正月からそして椛目にお供えしてくれて言うて、あちらの壱岐の教会の、お父さん方の先生がお供えをことずけて御座いましたから、早よう持ってこんならんとち言うてから、持ってからそのお礼参拝が御座居ました。そん時にです、先生今年の元旦の御夢が、こう言う様なお夢でしたち、言うてからお届けされるんです。私して言うのは、いわゆる末永勇さん、末永さんとその久留米の野口真子さん、それから久留米の光橋先生と三人で、私くしがこう、着物を着ておるその、それぞれ奉仕をしておる。
私くしはその紋付きの下からこう、掛けて上げしておる所で、その目が覚めたと、それが元旦の初夢だったと。今度、保険の外交しておられましたけれども、そこの所長がもう今年一年で定年になって、もう今年一年頑張って貰えや、来年はいつ辞めて貰っても良いけん、頑張ってくれと言われるのを、どうでも学院行きをしなければならんと言うので、無理に辞められてね。
今度学院行きを致します。については、いわゆる親先生も一緒なのでもう、お供して行く様なもんだと。それであちら行ったら、まあ本当に私しの様な者んですけれども、一つあちらで御用に使こうて貰わなければならん。それで光橋先生は身体が、こんな風で毎日足を揉んで貰わんと、ならんから足を揉まして頂く稽古を、せなならんとまあ来るたんびんに足を。その揉んでまあ言わば稽古して、帰られるんですね。
そう云う様な、その事を言うて、まあ、おられ訳なんです。今年の信心は、焦点はそこにおいておられる。光橋みつかと言う事は、分ったちゅう訳なんですね。その光橋とは、光の橋光の薫と書いてあるから、例えば先生にそう云う様なの御用をさして貰うと言う事がですね、その様な御用をさして貰う事が。これは、自分がいよいよ御結界に座らして頂く様な身分になった時に、恐らくここに、光橋。
いわゆる、氏子の世界と神様の世界をとり結ぶ、光の橋の御用をお許し下さると言う事だろうと、分ったんだけれど、野口真子さんと言うのが、よう分かりませんとお届けがあった。それはね野口真子さんと言う事は、野口真子さんくさ。あんたが脳は頭の事、口はこりゃ口。脳の思うて、思うておる事と言うておる事、いわゆる行うておる事と心行一致。本当に今年の焦点は、例えば大坪総一郎の、本気での御用奉仕をです。
今年はその事に焦点を置くと言う事は、言うてるおる事と、行う事が一緒に一致するなら必ず、みつはしみつこの、みつかのおかげが受けられると言う事だと、私しが申しました。言うても、御用はでけておる。けど真実そこの所に、野口真子とは、しんとは真の子と書いてあります。それをそんなら、おざなりにしただけじゃいかん、言うておるだけじゃいかん。もうギリギリ真から、万からその事に焦点を置いて、その事で徳を受けていく。これなんかも、矢張り言うておる事と行うておる事、皆さんも、感じられる事で御座いましょうけれども。又、文男さんが話しになりますけれど。
この人は、ちょいと冷いごたる感じがしますけれども、実にこの人は、芯がある人です。実のある人です。もうこら兄弟一番です。もう第一親がそう言います。私しの方では、文男が一番実のある、言わば子供ですと言う事。口じゃ言わんけれども行う事が先きだと。言う事よりも、実際行う事がです。神様に喜びいただける様な、いわゆる裏川を、かえって大事にする。
表てには例えば木綿の着物を着とっても、裏には羽二重の裏が付いておると言う様な、言わば、おかげを頂くと言う所からですね、私しはお徳が受けられる。私しは最近、あの人の上に起きて来る事柄の中にですね、これはこの人の力、力試しだなあと、神様ち本当に力を下さろうと、言う働きがあっておるなあと、こう思います事があるんです。もう最近、ついこの頃でしたけれども。
友人の新車を借りまして、熊本に参りました。あの人は、大体その大体うまいかろうは強い方ですけれども、こら四人前のおもいがあるですね。その、自分が少し乗り馴らしてやろう、ぐらい思っていってから。そしてあの追突されるならまだいいんだけれども、自分が追突しとる。その大きなダンプカーに。それで前のガラスから、もうほんの新車を、そのお、おかげを頂いてから、あの大きなガラスですね。
飛んで、飛んだけど割れず。そのまま、あのそれこそ小雨の降る日で御座いましたが。熊本からジーットあんた、自動車をもうそれこそガタガタ震えて、外の所はどうもなかったらしいんですけど、向こうの方ではダンプカーですから全然傷も付かなかったらしいですけそね。こちらの車は小さい車だもんですから、あちらの。これは麻生さんが運転して来ておる。あちらの子供二人と、家内乗せてこちらにお参りして来ておる途中にですね。あのヒックリ返りましてから。
あの高い所に落ち込んで、それにあなた、子供達は窓から飛び出してしもうとる。それがあともうちょこっとばっかりしたら、自動車がその上におて掛るごたる。それこそもう本当に、もうガタガタ震えるごたる事の言わば大難から、まあ無難のおかげを頂いておる訳で御座いますけれども。昨夜の火事の事と言い、最近あの人の身辺に起きておる、そう云う様な事と言いです。
これは唯、大難はおかげ、あのおくり合わせを頂いたとか、又、お気づけを頂いておるとか、と言った様なもう一つその、もう一つ違うもの、それは私しは、昨日火事の時遭った時に、おかげの花と言う事を頂いた時にです、それを感じました。ハハアお徳を受けよるなと言う事です。この様な例えば神様の、間違いのない働きがです、真剣に起きて来るんですから。
しかも神様はそれはお気付け頂きよっとばい、と言う場合もあったんです。けれども昨日ばっかりは、それは思いませんせしたですね。それは例えば、そうんならこれで御造営なら御造営と言う事に付いての、もう本当に、あの位な細々とした商売ですけれども、ここに御用頂いて御用の事については、ここではもう第一人者でしょう。ここ椛目で。ですがそういう様なその誰も知らない所にも、本気で力を入れる人ですよ、この人は。ですからどうぞこのおかげの花がですたい。ひとつ見事実の実るまで来る。
おかげを頂けねばならんと、私しは感じてその様な事は、矢張りおかげの花なんです。素晴らしいおかげを頂きなはったですねと、皆なが言うでしょうが。おかげの花が本当に実りになる一つの課程の所を、今通っておると言う様な気が致しますけれど。正義さんが昨日言うその話しと言い、本当に表よりも裏を大事にしていっておる、生き方の人の上に表れておるおかげと言いです。
もう本当に神様は、成程ごまかしは出来ない方だと言う事を感じます。まして人でも正義さんが言う様に、この男はですここん所をいっちょ切を付けたら、ああも取り立てよう、こうもと思っておったのがです。たった一ぺん、昨日、おとといその現場、もう回ってから、それまあ言わば自分の信じられない様な事をしとったと言う事でです。もうガックリ本当に、正義さん自身もガッカリしとると言う話し振りでした。
もう、本当先生、ガッカリしますちゅうてから言うんです。ほんなこっちゃなあと、信心もそれといっちょん変わらん。もう本当にあれだけの打ち込み、あれだけの信心が出来るから。あの氏子こそと神様が、本当の意味でのおかげを下さろうとする働きが始まる。そこをです例えて言うなら、神様の前に、神様をがっかりさせる様な事をです、してからおかげを台無しにしてしまう。言わばおかげを希薄なものに、散漫なものにしてしまうと言う事はですね。
おしい事でしょうが。んなら、陰の事を大事にする事はですね、不愉快な事かと言うと、そうじゃない。私しが何時も言う信心とは、有難うなる稽古だと言うけれどもね、もう有難くならして頂く稽古には、もう絶対是が必要なんです。だぁれも知らん。恐らくだぁれも知らんけれども、神様だけが御承知の世界。で私しがこう、こう思うておるこうさして頂いておると言う事がです。
そうさして頂いておる事がです。有難い事であれば、それは有難いものになって、沸いて来るから不思議です。どうぞ皆さん信心さして頂くならね、口に真を語りつつ、心に真のなき事。と、こう仰る。影と日向の心を持つなよと戒めておられる。そのそれこそまあ、せめてですね。もう言うておる事と、行うておる事が一致する位の所までは、ひとつおかげ頂きたい。
もうあの人は、椛目ではあげんですばってん、家帰えったら、もう二人みるごとあんなさるとですよ、と言う様な事ではですね、( ? )そうならいいんですけれど、どうでも例えば、御徳を受けられ方達の、そのあり方と言うものはですね、確かに表よりも裏の方によい裏を付けると言った様な、生き方をなさった方が、御徳を受けておられるという事実から言うてもですね。私し共が本当に、この陰の所を本気で大事にさして頂く信心、そこから私くしは人の、人の信用も神様の御信用も頂ける、おかげを頂かんならんと思うんですね。
どうぞ。